あしながおぢさん

何故、生まれてきたのだろうかとずっと思っていた。
何度も死んでしまおうと考えた…。
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凍てつく季節の始まりを告げるように、
冬の妖精が初めて舞い降りた日、
ボクは病院のベッドの上で産声を上げた。
ありふれた家庭に、小さな幸せの明かりが灯るはずだった。
そう、ボクの聴力に問題がなければ。

生まれつき難聴ぎみだったボクは、声をかけてくる親への反応が遅かった。
母はそれでもゆっくりと、少し大きな声で、ボクの笑顔を引き出そうとしていた。
ただ、短気でせっかちな父は、それが気に入らなかった。
自分の声に反応しない息子。
手を叩いて、ようやく自分に気付いたかと思えば、すぐに横を向いて去っていく。
父になつかず、近寄らず、笑わない。
最初は懸命に努力をしようとしていた父の表情は、子どもの成長とは裏腹に、次第に硬く、険しいものになった。
そう、誰のせいでもないハズなのに、でもボクのせいで。

気が付けば、父はただの男へと変化していた。
部屋の中が騒がしくなり、皿や花瓶、家の中のものが次々に壊れた。
部屋の中を満たすアルコールの臭い。飛びかう罵声。
静寂という言葉が最も似合わない時間が流れ続けた。

ボクが2歳の時、母が病に倒れた。
疲れ果てた父は、当然のように姿を消した。
平凡な幸せを手に入れたかっただけの家族は、皮肉にも小さな命を授かったことで、その姿を消した。

今のママの所に来たのは、それから間もない時。
なぜ母がいないのか、なぜ母の写真が仏壇に飾られているのか理解できないまま、新しい生活が始まった。

幸か不幸か、母の姉であるママには母の面影があった。
ニコニコとでボクの頭をなでるパパの姿もあった。
ボクは錯覚にも似た感覚の中で、母と過ごした悲しい日々を、明るく温かい部屋で見た悪夢だと思うようになった。
ママとパパの声を聞きたいためなのか、聴力もやや回復し、確かに聞こえにくいけれど、普通の子どもとして、普通に学校に通い、普通に生活ができるようになった。

しかし、平穏な日々は、ある日突然に崩れ始める。
あれほど仲が良かったパパとママが睨み合い、静かに冷たい時間だけが流れた。やがて、罵声も破壊音もしないまま、平穏な日々が幕を下ろした。
誰のせいかわからない。でも、ボクのせいかもしれない。
気が付けば、ママとボクとの二人での生活になっていた。

ママはボクを大切にしてくれた。
だから、少しも辛いとか、悲しいとか思わなかった。ただ、生きているということが苦しかった。
だからボクは悲しみや苦しみを閉じ込めるとともに、
感情を表現することを拒否するようになっていた。
たった一つ、ママがボクに微笑んでくれる時を除いて。

生活は決して楽ではなかった。
ママは留守がちになり、ボク一人で過ごす時間が増えた。
冷たい食事、静寂の中で響くテレビの音。
絵本やテレビにある世界は、すべて空想のもの。うらやましくも思わない。あこがれもしない。ただ、悔しかった。
「ママとの生活で十分、満足できるはずなのに」
そう思いながら、ボクは寒い部屋で玄関が開く音が聞こえるのを待ち続けた。

無機質な時間を過ごしていたある日、一人の少年が玄関に立ったことで大きく変わった。

少年はママに何かを手渡した。
同封されていた手紙を読み、ママは驚き、同時に疑問を抱いた。
「すべては、冨弘くんのことを思ってのことです」
ママはにわかに信じがたいとも思いながら、少年の真っ直ぐな目の中に真実(ほんとう)を見つけた。

「足長おじさんからよ」
ママがボクに手渡したのは、一枚の紙だった。
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ある人から聞いたけど、いつもがんばっているようだね。これからもママのいうことを良く聞いて、立派に育ってね。
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ありふれた言葉かもしれないが、ボクが親以外から感じた初めての優しさだった。さっそく手紙を書き、少年に足長おじさんに届けてくれるように頼んだ。

親子二人の生活は、新しい炎りが灯されたように明るさを増し、ママはボクといる時間が増えた。
毎月届く足長おじさんからの荷物、それを楽しみにするママとボク。温かい部屋、温かい食事。ママの声を聞きながら眠る日が続いた。
ボクは嬉しい半面、この生活を失ってしまう恐怖を感じていた。おじさんへの感謝の気持ちとぬぐいきれない不安。だからこそおじさんに手紙を書き続けた。

その不安は、あっさりと裏切られた。使い慣れたランドセルを卒業して真新しい鞄を使い始め、その鞄の学年とクラスを書き直しても生活は変わらなかった。

日々を送るうちに、ボクは自分の変化に気付き始めた。一つはおじさんに会ってお礼がいいたいという素直な気持ち。もう一つは、ボクの…。

自分の気持ちとは裏腹に、次第に手紙の内容が短くなっていく。そう、おじさんに会いたいという気持ちが膨らみ続けるのと反比例するように。
「今なら、まだ間に合うかもしれない。どうしても会ってお礼が言いたい」
しかし、それはボクにとって特別な意味を持つ言葉だった。せっかく手に入れたごく普通の生活。禁断の呪文が、この生活を無へと導く可能性を秘めていることをボクは知っていた。
日々、募る思い。永遠に続けたい今のママとの暮らし。
普通で、平凡で、ごくありふれた生活のハズなのに、ボクは自分と戦い続けた。

そんなボクの気持ちに気付いたのか、ママはボクに教えてくれた。
「正直な気持ち、心を込めた言葉は、決して裏切らないのよ」
そんなことはボクにはわからない。でも、信じたい自分がいる…。

大きく深呼吸をして高ぶる気持ちを抑えながら、大きな字で何とか自分の気持ちを書いた。そして、あの少年に託した。

期待と後悔。それからは、落ち着かない日が続いた。

数日後、あの少年がボクの前に現れた。
そう、1通の手紙を手にして。

届いた手紙。しかし、ボクをそれを見ることができなかった。何故か体が震えて止まらなかった。少年はボクの気持ちを察知し、足長おじさんから託された手紙を読み始めた。

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お手紙ありがとう。とても嬉しいです。
冨弘くんには正直に話をします。実は、私には昔の記憶がないのです。
しかし、以前には悪いことしたと少年から聞きました。
どんなことかは教えてもらえないけれど、せめてその罪滅ぼしの気持ちを込めて、頑張っている冨弘くんを応援しているのです。
どんな悪いことをしたのか…。考えるだけでも恐ろしいことです。本当に、誰にも会わせる顔がありません。
冨弘くんの気持ちはありがたく、嬉しいです。これからも今まで通りお願いします。
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会えない哀しみ。気持ちが伝わった喜び。今の生活が続けられる安堵感。全身の力が抜けるように、その場に座り込んだ。

少年がボクを見かねたのか、声をかけてきた。
「おじさんには悪いかもしれないけど、連れて行ってあげるよ」。

その言葉を聞いたボクは、一瞬で顔中が熱くなることを初めて体験した。
「さあ、行こう」
少年はボクの手をとり、一緒におじさんの住む場所へと向かった。

さて、足長おじさんの正体とは?